愛なんて知らない

 渋谷が嫌いだ。
 昔、ティンダーでマッチングした男と、渋谷のハチ公前で待ち合わせをしたが、連絡もなしにドタキャンをされた。それだけではない。渋谷に行くたびに雨が降り、そのたびに傘が壊れる。ヒールの底が抜けたこともあった。
 とにかく渋谷が嫌いだ。往来を行くどいつもこいつもスマホ片手に人生楽しそうで、それが案の定うらやましい。
 という話を向かいの男に延々、呪詛のように吐きながら、あたしはほとんど冷え切ったアンガスサーロインのステーキサラダを頬張った。思いのほか、肉の味がする。男はそっかとつぶやいて、ハイビスカスティーをすすった。
 男の名前は高天原紫。
 たかまがはらが名字で、むらさきが名前。
 ヘタなラノベの主人公みたいな名前の彼とは、家の近くの美容院で出会った。あたしは客で、紫は美容師。なぜか話が合って、たちまちお茶する仲になった。紫もあたしも平日休みで、他に遊べる人がいないというのもある。
 出会って一ヶ月が経ったころ、駅までの帰り道、薄暗い路地裏、紫は立ち止まり、云った。
「僕、不老不死なんだ」
 いわく、正保元年に商人の息子に産まれた彼は、結婚し子供もできたが、病気で家族を亡くし、なんやかんやで不老不死になり、現在三百七十四歳だという。
 今どきヘタなラノベ作家だってそんな設定考えない。あたしは笑った。その瞬間、彼はかばんからハサミを出した。美容師が使う、嘘みたいに鋭利なやつだ。
 刺される、と思った。
 あたしがバカにして笑ったから。もしくは、元々あたしを刺そうと思って、だからハサミを持っていたのかも。あたしの脳内でワイドショーが流れる、職場のデパ地下、同僚の声が加工されて、浅見さんはいい人でした、そして映されるあたしの中学の頃の文集、新卒の履歴書の顔写真、両親のインタビュー、人間関係、そこまで未来を思い浮かべて、あたしは固く目を閉じ、衝撃を待つ。
 しかし待てども何も起きないので、目を開いた。
 その直後、紫はハサミを振りかぶって、自分自身の腕へと突き刺した。
「見てて」
 ハサミを横へ動かし、傷口を広げる、作り物みたいに流れて肘を伝うあざやかな赤い液体、ふいに酸っぱい胃液がこみ上げる。そういえば、グロいの、駄目だった。地面へ伏してえずこうとしたら、紫に顔をおさえつけられた。
「ちゃんと見てて」
 わざわざ見せつけるかのように、ハサミが深く刺さった箇所を、あたしの目の前に移動させる。
「ほら」
 紫はもう一度、ハサミの柄を握ると、ゆっくりと引き抜いた。したたる血液が、まるで逆再生みたいに、紫の肘を登り、傷口の中へと入っていき、その傷口も、まるで見えない糸に縫合されたみたいに、ひとりでしゅるしゅると閉じていった。
 男にしては生白いその肌に、傷などどこにも見当たらない。さっきまで、ぱっくりと切れて、肉が見えていたのに。
「たいていの傷ならすぐに治っちゃうの。さすがに首を切られたら死んじゃうと思うけど」
 それでさ、まゆりさん。口を開けたまま呆けるあたしに、紫は云う。
「お願いがあるんだけど」
 人には口外しないでほしい。
 そう云うのかと思いきや。
「僕と付き合ってくれない?」


 告白は断った。
 まずそもそも、流れがおかしい。人は普通、告白の前に、自分の再生能力を見せつけたりしない。おかげでしばらく、肉や生魚が食べられなかった。
 それに、結局不老不死が本当なのか、それとも何かのトリックを使ったのか、未だに謎ではあるが、この際どちらでもいい。ハサミで自分を突き刺す時点で願い下げだ。
 あと、これが一番重要だが、顔が絶妙に好みではない。どちらかというとモテそうな、ジェネリック星野源という顔立ちだが、あたしは山田孝之みたいな、濃い顔の方が好きだ。
 それでも、紫のことが嫌いなわけでは、決してない。
 むしろ人としては好きな部類だ。あたしのクソみたいな日常も笑顔で聞き流してくれる。あたしに必要なのは、山田孝之みたいな彼氏じゃなくて、あたしの話を嬉しそうに聞いてくれる星野源なんだろう。心の中ではわかっている。
 だけれども、紫と付き合うのは、何かが違うのだ。


「まゆりさんも学習しないよね」
 次の金曜の夜、ペアーズで知り合った男とご飯へ行くという話をしたら、めずらしく紫が口を開いた。
「僕にしておけばいいのに」
 この男はよく、こういった類いの、虫唾が走るセリフを口にする。そのたびあたしは鳥肌の立つ言葉を無視し、別の男と会い、あるいはLINEを既読スルーされ、あるときはドタキャンされ、あるときは付き合い始めるも二週間で浮気をされ破局、そうすると、自分の中の弱い部分がささやきかけるのだ。
 もう、紫でよくない? 
 雰囲気はうさんくさいし、たまに髪色が緑とか蒼だし、笑ってても目が笑ってないし、浮気などした日には地下室に軟禁とかしそうだけど、でも凍える渋谷にあたしをひとりきりにする男よりはずっとましだ。たとえ、不老不死を自称して、自分の腕にハサミを突き立てる人間でも。
 なんてことを考えつつも、それはそれで負けた気がする。
 自分の中の強い部分が、そう云いだして、結局、紫で妥協案は頭の中の引き出しにしまわれる。念のため、取り出しやすい位置に。


 金曜の夜はさんざんだった。
 相手の男は遅刻してきて、あたしはまた寒空の下、新宿駅東口のライオンの像と一対一でにらめっこ、そのあいだ、クローンみたいに同じ顔した男たちが何人も、あたしに声をかけた。ウザい、だけど声をかけられて内心喜んでるあたし自身が一番ウザい。
 連絡がないまま三十分、帰ろうとした矢先、店名が地図もなしに送られてきた。いや、迎えに来い。せめて三十分前に送れ。店の前に着く一分前、またスマホに通知が来た。友だちも一緒だけどいい?
 あたしの中のセンサーが、うんうんと鳴り響く。
 今すぐ回れ右して、帰れ。新宿から遠ざかれ。家に帰って、冷凍庫に入れてある雪見だいふくを食って寝ろ。自分をすり減らしてまで、居もしない誰かを捜すのは、いいかげんにやめにしろ。それを無視して、あたしは店の中に入った。だって、あたしはもう若くはないのだ。
 チェーン店の、英国風パブ、まだ十九時前だからか、客の入りもまばらだ。
 一番奥の樽を囲んだ三人の男が、あたしに気づいて手を上げた。そういえば、プロフ画像に顔写真を載せていた。
 近づくあたしに、真ん中の男が云った。
「七十五点」
 右の男が云った。
「いや、もう少し上だろ。七十七点」
「変わんねえだろ」
 笑って、三人はハイボールのジョッキを傾ける。
 あたしの顔のことを云っているのだ。
 頭の中が真っ白になった。


 気づけば、あたしは男たちと別れて、電車に乗って、新宿駅から離れていた。
 七十五点。
 あたしはあのとき、たしかに笑った。へらへら笑って、場を和ませた。そうやって、自分の傷口を広げ、一層惨めなものにした。だけど、他にどうすればよかったのだろう。
 流れていく夜の東京を窓越しに見つめながら、来る駅来る駅、増えども減らぬ人の波、あたしの心は、未だ英国風パブにいた。
 あのときのBGMが、まだ耳にこびりついている。高畠陽介の、『愛なんて知らない』。場違いなほど古くさいメロディが、酒臭い空気に思いのほかなじんでいた。
 ――愛なんて知らない、そんなもの知らない、知らない、知らない、知りたくなんてない……。


 駅から家へ帰る途中、公園で、カップルが抱き合っていた。それを見て、どうしてか泣きそうになる。その公園を、右に曲がって、小さな橋の上、今度は叫びだしたい気持ちになって、あたしは足を止めた。
 ああ。なにをやってもうまくいかない。
 必死に働いても、月二十万ももらえず、ジムへ通っても、体重は増える一方、無料で計測してもらった肌年齢は四十を超えていた、仲のよかった女友達はみんな結婚して、あたしなんかには目もくれず、そうしてあたしは、初対面の男に七十五点を突きつけられる。
 あたしはただ、誰かの百点になりたい。
「まゆりさん?」
 なじみのある声が、上から降ってきた。
 紫だ。いつのまにか、橋の上で屈み込んでいたらしい。
「どうしたの?」
 あんたこそどうして。そう云おうとしたが、口の中が乾燥して、つぶれたカエルみたいな音しか出せなかった。
「そろそろ家に帰る頃かなって」
 ストーカーかよ。
 たしかに、うちに一度呼んだことがあるけども。
 だけども、あたしの口からは、まったく違う言葉が出た。
「ねえ、あたしって何点?」
「なに?」
「答えてよ。気ぃ使わなくていいから」
 この男のことだから、きっと歯の浮くようなセリフをくれる。今はただ、やさしいだけの言葉がほしい。
「まゆりさんはさ」
 紫は云った。
「百点満点って云ってくれる人なら、誰でもいいよね」
 紫と視線が重なる。いつもと同じ、口元は微笑んでいるのに、目はまったく笑っていない。ぞくりとした。
 もしかしたら。
 この男は、本当に三百歳を超えているのかもしれないと、あたしは初めて思う。
「……そんなこと」
「ないって、云いきれる?」
 あたしは返事をしなかった。できなかった。
 そんなことないって、云いきれないから。
「僕にも人の心はある。これ以上、まゆりさんがちっぽけな承認欲求のために、知らない男に尻尾ふって、自分をすり減らしていくのを、遠くから眺めるのはもう嫌だ」
「……」
「ねえ、まゆりさん」
 ――まゆりさんを、不老不死にしてあげる。
 紫は身を屈めて、あたしの目をのぞき込んだ。
「人魚の肉。ひとかけらだけ、乾燥させて残してあるんだ。口にすれば、僕みたいになる。まゆりさんもきっと自由になれるよ。今みたいに傷つくこともない。ふたりで生きよう。どこか遠くで」
 まるで恋愛ドラマのクライマックスだ。あたしは差し出された紫の手をじっと見る。美容師とは思えない、ほそくて生白い手。幽霊みたいだ。それとも、目の前の男は本当に亡霊で、あたしのちっぽけな承認欲求が生み出した、ただのまぼろしなのだろうか?
 何分経っただろう。
 あたしはついに、紫の手を取らなかった。
 代わりに立ち上がって、砂まみれのスカートをはたいた。
「あたしはさ、あんたの云うとおり、自分を欲してくれる人なら、誰でもいいんだと思う」
「だったら……」
「だからなおさら、あんたを特別な関係に引き留めることは、しちゃいけないと思う」
 紫の綺麗で密度の高い愛は、未熟なあたしには荷が重すぎる。安っぽいあたしには、安物のうすっぺらい愛がお似合いだ。
 そっかと、紫は笑った。あたしは云った。
「そのかわりさ、今からうち来る? 明日あたし久々に休みだから、思う存分飲めるよ。雪見だいふくもあるし」
「雪見だいふくいいねえ」
 あたしは紫に手を差し出した。紫は一瞬目を見開いた。次の瞬間には、あたしの手を握り返していた、その手は想像よりもずっとあたたかい。
 これでいいのだ、多分。
 この男が本当に不老不死なのか、まったくもってどうでもいい。平日のファミレスで愚痴を聞いてくれる大切な存在で、それ以上でもそれ以下でもない。少なくとも、この男のとなりでは、あたしは自分が何点なのか、思い悩む必要がない。
「愛なんて知らない、そんなもの知らない……」
「なにそれ」
「高畠陽介の歌」
「聞いたことない」
「一発屋だからね。あたしの生まれる前だけど」
 安っぽいメロディを口ずさみながら、紫と手をつないで、深夜零時の錦糸町、あたしはぼろぼろ涙を流す。
 ――愛なんて知らない、そんなもの知らない、知らない、知らない、知りたくなんてない……。
 紫は何も云わない。

 何も云わない代わりに、一緒に歌を歌ってくれた。
 思いのほかヘタクソな音程で。